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キューデンヴォルテクス五十年史 1970年度~1979年度

2019.04.03

1970年度 新入部員ゼロ、でも八幡には善戦

前年2名であった新入部員も今年はゼロ、全社の人員削減方針もあって補強ままならず、九州リーグではヤナセに替わって参加した西部方面自衛隊に逆転負け、新日鐵八幡(社名変更)とは23-23で引き分けたが、同率2位に終わった。強風下の平和台で行われた社会人大会予選決勝、前半2本のPGで6-0とリードしたが、風下の後半強力FWに押しまくられ、9分で逆転のトライを許して力尽きた。八幡戦に燃える九電お伝統は生きていたが、松尾監督の初陣を飾るまでには至らなかった。全国大会で八幡は順々決勝で敗れ、新日鉄釜石とリコーが引き分けて双方初優勝を果たした。

1971年度 ラストチャンスで宿敵八幡を倒す

11月28日の社会人予選決勝の平和台、九電の闘志は試合開始から燃え上がり後半11分白石のトライで18-4とリード、もしやの期待が広がる。しかし新日鐵八幡の追い上げは凄まじく、12分、17分そして終了寸前遂に逆転のゴールを許し、やはり駄目だったかとベンチもスタンドも肩を落した。しかし、終了の笛は鳴らずあとワンプレー、FWの鋭い突込みから桂口、岡田と展開し、WTB田中の快走で大逆転、遂に宿敵八幡に勝った。
18年ぶりに実力で新日鐵八幡を破っての全国大会出場であった。「新入部員はこの3年間わずか1名、みんなも今年が最後のチャンスと決心していた」という松尾監督の言葉どおり、ラストのラストを活かした勝利であり、この後8年間は再び全国大会から遠ざかる。
9度目の全国大会は初戦三井精機を接戦で下し、6年ぶりの勝利を挙げたが、準々決勝で近鉄に大敗した。
この年からトライ重視の好ゲームを期待しトライ4点、ゴール6点となる。4年間勤めた安浪部長に替わり、石崎部長が就任した。

1972年度 発足した西日本社会人リーグで全敗

九州リーグが発展的に解消し、西日本社会人リーグが誕生した。新日鐵八幡、九州電力、西部方面自衛隊に中国勢の東洋工業、淀川製鋼、山陽国策パルプが加わったもの。しかし九電は、福工大での合宿の成果空しくすべての試合に敗れて最下位、辛うじて電力大会だけは21度目の優勝を果たした。電力大会では44才のWTB三浦が最後の快速を披露。
全社的な要員削減方針の中で新戦力の補強なく、選手の高齢化で新日鐵八幡との差は開く一方、それでも乾坤一擲の勝負を挑んだ準決勝は19-26の接戦であった。 全国大会はリコーが初の単独優勝、四国代表で四国電力徳島が出場している。

1973年度 20名の部員をオイルショックが襲う

史上最小の部員20名という苦しい陣営で桂口監督が就任、FWは新人を含めて9名で全シーズンを乗り切った。スクラムの練習にはBKが借り出され、福岡から転勤した選手も試合には呼び戻された。リコーとの定期戦もあまりの力の差に2年前から中断していた。  
それでも西日本社会人リーグでは3勝3敗で同率2位と健闘したが、社会人予選は10-47と新日鐵八幡の前に敗退した。  
この秋オイルショックが日本全土を襲う。中でも原油の高騰は電力業界を直撃し、チームの再建もより困難になった。電力親善大会もこの年を境に中断をやむなきに至る。電力大会には東京支社勤務の中田元監督が出場している。

1974年度 秋の八幡戦にベテランの総力を終結

高卒を中心に5名の入部があったが3名は秋まで研修期間、苦しい練習と試合が続く。レギュラーの高齢化は進み、故障者も多くなる。西日本リーグは2勝3敗と4位、中でも新日鐵八幡戦は4-68の惨敗であった。  
しかし社会人予選の1回戦では、蔵野のトライで先行し前半は7-11と接戦を展開、年1度の総力をぶつけたが、後半力尽きた。これを機に漸くメンバーの若返りが進み始める。  
全国大会は3連覇を目指したリコーを抑えて、近鉄が8度目の優勝を果たした。

1975年度 若い九電、八幡の牙城に迫る

2名の入部で23名の部員、合宿は福岡荘へ。  
西日本リーグは2勝3敗で昨年に引き続き4位、新日鐵八幡戦は前半4-8と健闘したが終わってみれば10-50。  
しかし雨中戦となった社会人予選決勝では、1、2年生が5名を占める「若い九電」が「お手本のような思い切った突込み」で前半3-4、後半なかばまであわやの期待を抱かせる健闘であり、再生への気配をみせた新日鐵八幡戦であった。  
全国大会は三菱自工京都が2度目の優勝を遂げた。この年ルール改正でヤードからメートル表示となる。

1976年度 再び打倒八幡を目指して

13年ぶりの明大勢久木元、津山ら5名が入部、メンバーの若返りが進む。  
9月橋本浩二選手が肝臓癌で逝去。昭和48年に大口高から入社、前年に全九州メンバーに選ばれた若きホープの死を悼んで、チームは喪章をつけて西日本リーグの北九州コカコーラ戦を闘い24-18で競り勝った。勢いをかって4連勝で新日鐵八幡と対戦したが、21-43で敗れ、4勝2敗で3位。  
社会人大会予選でも1回戦で6-30で敗れたが、再び打倒八幡を目指して、展望を切り開き、第一歩を踏み出した年であった。

この年から2名の負傷選手の交替が認められることとなった。

1977年度 コーラに不覚、打倒八幡の路遠し

関東の大学勢2名を含む5名の入部があり、若い九電は意気盛んであった。西日本リーグで三菱重工長崎、北九州コカコーラ等を連覇し、5連勝で新日鐵八幡と対戦したが、強敵の壁は厚く4-36ではね返された。  
再度の挑戦を期して臨んだ社会人大会予選だったが、初戦で北九州コカコーラに苦戦、双方1トライであったが4-12で不覚をとる。打倒八幡の前途はまだ多難であった。  
全国大会では、2連覇を目指した新日鉄釜石に準決勝で逆転勝ちしたトヨタ自工が2度目の優勝を遂げた。

1978年度 8年ぶりにリコー戦復活

今年も5名の入部があり、吉田監督が就任して初の菅平合宿。関東の社会人・大学チームにもまれて、平均年令21才の九電は死に物狂いでレベルアップを目指していた。30-32で敗れはしたが、8年ぶりにリコー戦も復活。  
西日本リーグは、台風被害復旧の徹夜作業から駆けつけたメンバーだけで戦った北九州コカコーラに続き、三菱重工長崎、新日鐵八幡にも敗れて4位。社会人予選でも、決勝で前半3-6と健闘したものの3-31で敗れ、八幡との力の差はまだ歴然としていた。  
名島のグランドが高速道路にとられることとなり、代替地探しが始まっていた。

1979年度 逆転のゴール成らず、打倒八幡にいま一歩

電力親善大会が6年ぶりに再開、翌々年から隔年開催となるが、この2大会とも第24回と銘打たれている。九電は23度目の優勝。  
徳田監督が就任し、久しぶりに30名を超えた部員、今年も菅平合宿を終え、西日本リーグで宿敵八幡と対戦した。3-8とリードされた後半20分WTB藤崎の70メートル独走で逆転、11年ぶりの勝利であった。  
勢いづいて対戦した本番の社会人予選決勝、4-16とリードされた終了寸前、33分、35分と江頭がトライ、ゴールキックに勝負にかかったが僅かに入らず18-19で惜敗、しかし力の差は着実に狭まっていた。  
全国大会は新日鉄釜石が2連覇、釜石の時代が始まっていた。