TURNING POINT
 第4回目のターニングポイントは、CTB三輪幸輔選手です。小学校ではサッカー、中学校では野球をし、宮崎県立高鍋高等学校に進学後にラグビーを始めるという多種目の競技に携わってきた三輪選手。高校卒業後は、明治大学へと進み、ラグビーを続け、九州電力に入社。入社して13年目を迎え、チーム内最年長となる三輪選手のラグビー人生における転機はいつ、そしてどのような転機だったのでしょうか…。

厳格且つスポーツ好きな父の影響

―父の存在の大きさ―

 私の父親は、非常に厳しく、スポーツ全般が大好きで、“勉強よりスポーツ優先!!”というタイプです。小学校でサッカー、中学校で野球をしていましたが、野球をしていた頃は、よくテレビで野球を見せられ、「見て学べ!!」と言われたり、小学校1,2年生の時は、わけもわからず「走れ!」と毎日マラソンをさせられていましたね。(笑)
 本当に怖かったという記憶が強く残っている半面、仕事上、試合にはなかなか見に来られないものの、練習をこそっと見にきたりしていました。さらに、野球をしていた頃は、メンバーに入れず、試合に出られなかったのですが、父親が「何でうちの子を出さないのか!?」と先生に聞きに来たことがあるんです。あの時は、へこみましたね…。恥ずかしい思いと情けない思いと…。(苦笑)でも、今となっては、期待と愛情に溢れていたなと思います。

―父の勧めでラグビーに―

 高校入学する際に、「スポーツを変えてみたら?」と父の提案を受けました。高鍋高校といえば、ラグビーの伝統校でもあり、挑戦してみようかなという思いで入学と同時にラグビーを始めました。また、母の弟である叔父もラグビーをしていて日本代表になった選手であり、小さい頃からラグビーの話を聞いていたので、身近には感じていましたね。
 野球で試合に出られなかったり、身近にラグビー選手がいたり、父の勧めがあったりと色々な偶然が重なってラグビーに出会うことができました。

 高校の時は、仕事の関係で家族が愛知県に引っ越したので、1年生から下宿生活でした。たまに父親が電話をしてきて、「頑張ってるか?試合には出られるか?」とラグビーの話ばかりをしていました。「自分に負けるな!!やればできる!おまえならできる!」と常に言われていたのが今でも思い出として残っています。


元木由記雄氏との出会い

―偉大なる主将との関係―

 高校卒業後、大学ラグビーの対抗戦を見て憧れも抱いていた明治大学へと進学しましたが、当時の明治大学ラグビー部は、上下関係が非常に厳しい時代でした。入部当時の明治大学は、元木由記雄氏(現 神戸製鋼コベルコスティーラーズ 選手兼コーチ)が主将であり、春シーズンから私を一軍に入れてくれて、元木さんとCTBのコンビとしてやらせてもらいました。1つ1つの試合が思い出で、当時スーパースターだった元木さんに追いつこうと必死でした。


 寮の部屋も元木さんと一緒で、キャプテン部屋と呼ばれる部屋で毎日を一緒に過ごしていました。試合のビデオを分析して一緒に見たりもしましたね。
 元木さんの素晴らしいところを挙げるとすると、沢山ありますが、まず挙げられるのが、“統率力”です。当時は、主将が練習メニューを考え、主将が練習においても指示を出し、率先して取り組むのですが、どんな時でも緊張感のある練習を実施し、チームをまとめ上げ、ラグビー人生の中で、自分自身、一番真剣にラグビーをしていた時期だったと思います。

―タックル―

 元木さんと出会い、元木さんから大変多くのことを学び、アタックもディフェンスもプレーヤーとして大変素晴らしい方だと思っています。アタック中、相手のタックルとパスの間合いの作り方、ボールの放し方、言葉なしで感じ取れてしまう凄さがあります。中でもタックル技術力は本当にすごいんです。少し高めの位置で捕まえ、ボールごと相手も一緒に倒してしまう…。タックルは相手の膝のあたりを目掛けて低くするのが通常ですが、その使い分けも絶妙で、勉強させられました。
 日々の練習を終え、2人でタックル練習をしたことを覚えています。ボールごと相手も一緒に倒すというタックル、低く入るタックル、今でもそのスタイルは私の身体に沁み込んでいますね。2人だけでの練習により、大きく成長できたと思っています。

―信頼と尊敬―

 上下関係は厳しいといえども、試合中は、元木さんから「思いっきり好きなようにやれ!!」と背中を押してもらい、思う存分やりたいことをさせてもらった気がします。当時、試合のメンバーは、主将、副将が決めるのですが、元木さんと当時副将の藤さん(現 神戸製鋼コベルコスティーラーズ主務)が、自分を選び続けてくれて、多くの経験を積ませてくれました。大変感謝しています。大学4年間で3回の優勝を果たすことができましたが、そこまでに15分の1の力として貢献できたのは、1年生での経験が大きかったですね。
 元木さんは、今でも追いかけ続けている存在であり、素晴らしいと感じるラグビー選手は多くいるものの、尊敬できる選手は、元木さんだけです


ここでラグビーを終えるという場所

―九州電力での屈辱―

 大学卒業後のことを考えると“ラグビーを終える場所”というイメージがあり、色々なチームからお誘いは受けたのですが、仕事とラグビーを両立したいという思いも強く、また、「地元の九州に戻ってこい」という親の意見もあり、九州電力への入社を決めたのですが、当時、九電ラグビー部は弱く、入部してからチームが強くなっていけばいいなという思いと、入るからには強くしたいという思いもありました。
 入社3年目で、ようやくマツダに勝ち、全国社会人大会に出ることができた九電ラグビー部でしたが、その大会1回戦で、神戸製鋼に100点ゲームをされたんです。あまりに衝撃的で、悔しさというよりショックが大きかったですね。
 今のように環境が良いわけでなく、練習メンバーすら揃わないような時代だったので、選手の素質はあっても、勝てるまではほど遠く、全国レベルまでいきたいという気持ちがさらに強くなりました。
 そこから7年後にトップリーグ昇格し、本当に嬉しくて、やっとこのレベルまでこれたと思いましたね。
 やれるところまでやりたい!!全うしたい!!ラグビーも仕事も!その思いを持ち続け今に至っていますが、ラグビーと仕事の両立、そして、神戸製鋼戦の100点ゲームがなければ、ここまで頑張れなかったと思います。



【大学時代の先輩、元木由記雄選手(神戸製鋼コベルコスティーラーズ

 これまでチーム最年長で頑張ってこられたとのこと、本当にお疲れ様でした。
 明治大学でともに優勝を経験できたことは私にとっても非常に良い思い出です。私が三輪を一年生ながら、春からのシーズンを通してずっとレギュラーとして使い続けたのは、彼が「逃げない選手」だったから。普段は寡黙であまり口数も多くないけれど、とてもタフで芯が強い。特にディフェンスが持ち味で、センターのコンビで隣にいて非常に頼もしく思っていました。
 あのシーズンの明治は、本当に仲間に恵まれたと思っています。試合に出る選手はもちろん、試合に出ない選手も、一年生から四年生まで本当に一丸となってチームの勝利に一生懸命貢献してくれました。
 そんな良い意味で緊張感のある厳しいチームにあって、やはり皆の気持ちを背負って試合に出るのは、自分の持ち場をきっちり守って、逃げない選手である必要がありました。
 三輪はまさにそういう選手。いい仕事をしてくれて本当に感謝しています。
 これまで、その時々のターニングポイントで吸収したことを、これからも是非活かし続けてください。私も頑張ります。                    
元木由記雄


 以上、三輪選手のターニングポイントは、いかがでしたか?
 三輪選手は、九電ラグビー部で主将も経験しており、部の中でも昔から尊敬されているベテラン選手です。試合に出ても、相手を仕留めるタックルは目を見張るものがあります。
 その三輪選手が、ここまでこれた背景、転機を聞くと、納得してしまいます。貴重なお話を聞かせてくれました!

 さて、次はどの選手のターニングポイントを知ることができるでしょう!?次回をお楽しみに☆

  

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