第五回は、九電の代名詞とも言える「ランニングラグビー」の礎を作った鬼軍曹、小柄な選手が多い中、「湧き出るタックル」で 監督就任1年目に新日鉄八幡を撃破して9年ぶりの全国大会出場を決め、その後もベスト4、ベスト8と一時代を築いた名将。 現在はOB会幹事長として、応援団の立ち上げなどヴォルテクスの後方支援に努力を惜しまない白石先輩です。
question ―まずは白石さんとラグビーとの出会いについて。決してラグビーが盛んでない熊本県でラグビーを始めたきっかけを教えて下さい。
熊本工業高校自体がスポーツに盛んな高校で、野球・サッカー・ラグビーと各種目とも強い高校でした。そんな中、6月の梅雨の時期、他の部(野球・サッカー)は休みなのに、ラグビー部だけが雨の中を黙々とタックルなどの練習をしていました。その直向さにひかれて、・・・「やってみようかな」と思い入部しました。当時は、あまり深くは考えてなかったですね。(笑)
question ―熊本工業高校から九州電力へ。同期にはJAPANの桂口先輩など有名な選手もいました。当時の先輩とのお付き合い、特にお酒のお付き合いなんかは大変だったんじゃないですか?
全日本の桂口さんは、新入部員の歓迎会で隣に座っていたのでちょっとびっくりしました。平尾にある【黒金寮】で部屋も隣同士だったので、練習帰りも毎日お酒を飲んで帰って楽しくやっていました。
高校時代と社会人のJAPANクラスの人とは、いろいろな面でハンデがあるので、そこに追いつくまで練習自体はきつかったですね。
question ―白石さんに影響を与えた監督、選手、何で影響を与えられたのか教えてください。
監督ではないのですが、藤本さんというコーチがいらしゃいました。昭和56年に新日鉄八幡を破って久しぶりに全国大会に出場した時は、部員数も少ない時でしたが、高い目標を持ってかなり厳しい練習をしました。夏合宿は異例の三部練習で(今では考えられない!)、とにかく痛いのに慣れろ!とか、身体が小さかったのでラック勝負ということで、その練習に明け暮れていました。結果的には、その努力で勝っちゃったというか・・・。成せば成る!というようなシナリオだったのですが、高い目標を持ってそれを目指して直向きに練習して勝った!という、その当時の藤本コーチが印象に残っていますね。
question ―高卒で無名、また体格も劣る選手がレギュラーを掴み、九州代表まで登りつめるのは、並大抵の努力ではなかったでしょう。
我ながら下半身が強かったので、怪我をしないというか、前歯を三本折ったくらいで骨折とかはなかったね(笑)あとは、打倒!八幡!という中で、その頃の九州代表はほとんどが八幡の選手だったので、それに「負けまい」として、オフシーズンも自分自身でかなりトレーニングに励みました。当時は今みたいな仕組みではなく、オフシーズンは個人的な考えでやっていたので、そこを一生懸命やったというのがひとつありますね。
question ―選手として一番思い出に残っている試合を教えてください。
そうですね。まあ、昭和56年度に新日鉄八幡に勝った!というのと、ブリティッシュコロンビア州立大にJAPANが負けて、九州代表が勝った!この試合が印象に残っています。
question ―OBの方はみなさん思い出に残ってる試合というと八幡製鉄との試合をあげられますね。
昔は(今と)仕組みがちがって、九州は福岡が一区、その他の県が二区でした。福岡県予選で勝った方が全国を制覇していて、九電は苦汁をずっと舐めてきていました。八幡が接戦で「5対3」とか「3対0」とかで九電に勝ち、全国大会へ行き全国を制覇していっていました。万が一、九電が出ていたら、かなりの優勝回数が増えていたのではないか?と思うと、それだけ九州は、【ラグビー王国】だったと言えます。だから、私たちの時代は「打倒!八幡製鉄!」でした。
question ―その後選手を引退、昭和55年から監督に就任されました。当時は今のような恵まれた環境ではなかったと思います。当時の思い出を聞かせて下さい。
最初の4、5、6月の三ヶ月あたりは徳田さんが監督だったので、まだ選手でしたが、急遽出向されるということで、「監督をやれ」と言われました。最初の一年間は選手兼監督でした。しかし岩倉が同じポジションだったので、自分が上だと思ってはいたけれども(笑)、育てるという意味で(レギュラーを)譲った形ですね。
昭和55年の時は良かったですね。(当時の)釜石のようなタイプのチームで、バランスが良かった。津山や久木元が中心で、佐賀工や高鍋高出身の選手など・・・。選手の時は、今のような環境がなかったけれども、昭和51年から永倉社長に代わった頃ぐらいから、強化に力を注いで頂いていました。
question ―就任一年目に宿敵新日鉄八幡製鉄を破り9年ぶりの全国大会へ。その時の嬉しさは格別なものでしたよね。
ずっと・・・、全国大会に行ってなかったので、まずは全国大会に出れる!という喜びが大きかったですね。選手とか監督とか関係なく、九電が全国大会に出れるのは9年ぶりでしたので。(笑顔)
question ―そしてその翌年、昭和56年は25年ぶりのベスト4、57年はベスト8と、監督就任期間中は、輝かしい成績で、九州電力の存在を全国に轟かせました。
当時は、選手の平均年齢が若く、高卒の選手も多かったので、身体もそんなに大きくはありませんでした。監督就任期間中の時から、次の監督は津山に引き継ごうと思いながらやっていました。その(思いの)中、「走る練習」を徹底的にやりました。数の勝負というか、運動量で勝負というか・・・。あの時は、よく走っていましたね。試合時間以上に選手を走らせました(走れるスタミナをつける為に・・・)。
身体が小さくても、相手を圧倒する走力があれば試合に勝てる!(という考えでだけで・・・)走らせていました。
そういうのが〈鬼〉とか言われていた所以なんでしょうね(笑)
question ―「相手に走り勝つ」ということで、かなり厳しくきつい練習を選手に課せてあったそうですね。「九電の練習は日本一きつい」と、別の意味で全国にその名を轟かせたとか・・・。
勝つために、選手層の底上げのため、ひたすら走らせました。その他にも、ベスト4の時は、前年の全国大会で、セットプレーの大事さを痛感したため、セットプレーの練習にも多くの時間を費やしました。セットプレーが安定しないと全国レベルではやはり勝てないなという意識もありましたし・・・・。とにかく、安定させることを意識しました。
question ―3年間の監督生活での思い出を聞かせてください。
ベスト4になった当時、富安副社長という方が部長をされていて、25年ぶりのベスト4の時になり、祝勝会で飲んで、副社長を担いで街を練り歩き、風邪を引かせてしまいました。(苦笑い)
question ―その後監督を津山先輩へバトンタッチ。監督として輝かしい実績だったので、後任の人選も難しかったでしょう?
私が監督を引き受ける時には、もう次を誰にするか考えていました。津山監督にバトンタッチする時には、このチームをどこまで持って行こうかということも含めて・・・。「走れるフォワード」当然バックスもですが・・・。
question ―その後はOBとして選手を側面からバックアップして頂いています。最近のラグビー部、強化、トップリーグ昇格をどのように感じられますか?
会社で『シンボルスポーツ』にしていただいたことが大きいと思うし、環境面で整えていただいたことと、コーチ含めたスタッフと、それに練習計画に基づいて着実にやってきて、3年でトップリーグという目標を掲げた中、一年前倒しの2年で昇格出来た!ということで、非常にすばらしいと喜んでいます。
特に、近鉄に快勝して昇格したことが、OBとして特に嬉しいですね。(昔)74対0で、花園で負けた時「九電停電」なんて事を言われていたので、特に嬉しかったですね。(笑)
今年は選手強化や補強も含めて、ある程度成果(春の試合)が出ているので、そのまま勢いで行って欲しいと思いますね。
question ―応援団の結成は、本当にトップリーグ昇格の起爆剤でした。
OBもなかなか連携というか、組織上うまく行かない部分もあったのですが、現役を通じてOBの中でも連携というか、まとまりが出来たと思います。同じ目的で現役を支援する手段ができたということは良かったと思います。今年は、応援団の組織を強化して、3つのグループに分けて現役支援をいろいろやっていこうとしています。
question ―また、香椎YRの創設にも関わってありましたよね?ラグビー普及にも努力されてありますよね。
そうですね。昭和60年4月に、福岡市の東区に(クラブが)なかったので、監督を辞めてすぐに、コカ・コーラのOBの方から声をかけてもらった縁もありました。15歳からずっと【ラグビー】に支えられていましたし、【ラグビー】を通して人格を形成してもらいました。その恩返しという意味で、何か貢献したいという思いから、「いいですよ!!」と返事をして、5・6人で始めました。草ヶ江とか、先輩クラブチームにノウハウを聞きに行ったりして、グラウンドとか、基本方針とか、保護者、選手、コーチ会の仕組みなど、そういったものを教えていただきました。
今年創部20年目にして、福岡県で優勝したので、今週の土曜に祝賀会があるので呼ばれています(笑)
question ―この年齢まで離れられないラグビーの魅力はなんでしょうか?
いろいろあるとは思うのですが・・・、やはり『仲間』ですかね。九電を離れて違う会社にきて、ラグビー仲間(人脈)というか、変な意味ではありませんが、役に立っていることを実感しています。ノーサイドの精神を、一回経験したらやめられないというか(笑)ラグビー自体が、もっとメジャーになって欲しいという思いがあります。今年トップリーグ入りを果たして、ファンクラブも多く増やして、試合会場へ皆さん(ファン)に観に来ていただきたいです。
question ―仕事に目を向けると、白石先輩は配電業務で活躍され、営業所長も歴任、仕事とラグビーの両立は大変でしたでしょう。
入社当時が一番大変でしたね。あの頃は、現場でいろいろ働かされて、夏は暑いし、練習もあるし、歩くのも嫌というほど働いていました。このままではいけないと思って、設計の方に異動していただいて、少しは楽になりましたね。
今は崩れかかっていますが、(当時は)アマチュア精神を大事にして、仕事は通常通りやる!ということが、価値があることと思っていましたので、やれることは自分でやるということもありました。だから両立がどうのこうのということはなかったですね。
結果的には、うまくいったかもしれませんが、一生懸命その局面局面で切り替えて、【就業時間は仕事に熱中して、鐘とともにラグビーのことを考える】という生活でしたね。
ただ・・・、一番悔やんでいるのは家庭ですね。母子家庭状態というか。小学生時の子供の作文を見ると、お父さんの仕事はラグビーで、土曜日・日曜日はほとんどいない状態と書かれていました。夜も遅かったので、仕事の両立というよりかは、家庭との両立が大変でした。子供を育てるのは女房に任せきりだったので、・・・・今となっては、女房に感謝しています。
question ―現在は九電工福岡支店配電工事部部長をされていますが、毎日どのような仕事をしてありますか?
九電との連携で配電設備の建設とメンテナンスですね。各部署テリトリーがあって、現場に行って九電の想いを伝えたり、課題とか予算の面もいろいろありますが、安全と工事品質を念頭においた作業等を行なっています。主に九電とのパイプ役ですかね。結構忙しいですよ。
question ―最後に、今年念願のトップリーグで戦う後輩に、エールをお願いします。
個々の役割がチームの力になるので、今やっていることを信じ夏合宿の成果も信じて、10月28日の開幕に向けて、一段と逞しくなって、のびのびやっていただきたい。九州電力というのは、地域社会と共に歩んでいくということもあるので、九州全体がファンになれるのではないかと思うし、観客動員数も一番になるようにしたいですね。(笑顔)

白石 栄一(57歳)
■(株)九電工配電工事部部長
■熊本工業高校→九州電力株式会社
■現役時代は激しいタックルが売り物の小型FL 九州代表

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