第一回は、ラグビー部ではコーチ、監督、マネージャー、副部長など数々の
役職を歴任、仕事では人事労務部部長まで務め、今でも後輩から「博希さん」と慕われるお人柄、一方ラグビーに関しては、今でも本気で怒りを前面に押し出すこともある熱血漢。
九州電力ラグビー部の重鎮であり、象徴とも言える、吉田博希先輩を御紹介します。
question ―博希さんは、選手、コーチ、マネージャー、監督、副部長と長年九電ラグビー部に貢献されました。
まず一言で、博希さんにとってラグビーの魅力とは?
私にとってラグビーは、私の人生の原点ですね。始めたきっかけは、女兄弟で育ったので、厳しいスポーツをしないといけない!と常々思っていました。高校時代にラグビー部に入った時は、家族から怒られてしまいました。家族からは「怪我をする」ということで・・・。でも、その頃にはラグビーの魅力に取り付かれていました。 高校から続けたラグビーが何故【原点】か?というのは、私の人生の全てで、個人の性格をもすべて作り上げてくれました。 女兄弟で育ったので、甘いところも多分にあったと思うですが、厳しいスポーツをすることによって、いろんな事に、『耐える』ことが出来て、また『頑張れる』ことが出来たと思っています。そういう意味で、・・・ラグビーとは私の人生の原点です。
question ―そのラグビーを始められたきっかけは?
中学時代は、野球をしていましたが、野球ではなかなかレギュラーになれなかったものですから、高校のラグビーの先輩方から、「ラグビーは、すぐレギュラーになれるぞ!」ということで、ラグビー部に入りました。それから、ラグビーの虜になった訳です。
question ―筑紫ヶ丘高校卒業後,名門早稲田大学へ。大学でレギュラーを掴むには、
大変努力されたと思いますが、いかがでしょうか?
高校時代のチームはとても弱かったんです。ただ、体が大きかったのと、ラグビーの虜になっていましたので、関東でやりたい!!という思いは強かったです。大学に行った時は、大学に入ってきたのは有名選手ばかり・・・。その有名選手に負けないように!と練習に励みました。普通だと、シーズンオフになれば家(里)に帰るんですが、レギュラーを取る為に、アルバイトもせず練習ばかりしていました。お金が無くて、アルバイトでもしろ!と言われても、名門校出身の選手には負けないように必死に練習していました。
question ―学生時代、一番思い出に残っている試合を教えて下さい。
「全日本選手権」ですね。学生bPと社会人bPが戦って、日本一を決める大会なんですが、その試合に勝った!ということですかね。偶々、その時の試合展開が、何故かしら私のところにチャンスが回ってきたんです。結局、3つトライを上げたんですが、そのうちの2つが私のサイドに回ってきて、一番おいしいところを私が・・・(笑)。 花園で、12−9で勝った!本当に最高の思い出ですね。
question ―引く手あまたの中、九州電力を選ばれた理由は?
もともとは、広告会社が希望でした。・・・博報堂、・・・電通とか ところが、4年生の時に北海道遠征があり、めったに北海道なんて行けないと思って、遠征が終わった後、キャプテンと一緒に一週間くらい遊んで帰ってきました。その間に試験が終わっていたんです。先輩からはかなり怒られましたね。 それからは、九州に帰って来て、おかげ様で九州電力(株)が採用してくれました。感謝してます。
question ―当時の九州電力ラグビー部は、今のように恵まれた環境ではなかったと思います。当時の思い出を聞かせて下さい。
当時は、香椎競技場もなく、修猷館高校とか福岡高校をジプシーで回っていました。 2年目で名島にグラウンドができましたが風呂などはなく、ただ五右衛門風呂だけがありました。ナイター設備も最初はなかったですね。それを思うと、今の選手は最高に恵まれていますよ。
question ―ラグビーは怪我と隣り合わせ、博希さんも大怪我をされたと聞きましたが・・・。
昭和42年3月5日の事は覚えていますよ。オール九州と全日本学生の試合で、九電に入って1年目に、腎臓破裂で危篤状態になりました。もう危ないという事で新聞に載りました。何とか助かって、8月の夏合宿から練習し始めました。後で聞くと、本当に危なかったらしいです。そのくらい大きな怪我をしてもラグビーはやめられないですね。
question ―選手時代の思い出に残っている試合は?
昭和46年全国大会の予選で、八幡から勝った!!ことですね。現役時代は、十数年ですが八幡に勝ったのはその一試合だけです。
question ―その後監督、副部長など歴任されましたが、特に忘れられないことを教えて下さい。
一番きつかった事は、監督時代に試合の前日、メンバーが決められなかったことですかね。怪我人だらけでメンバーが組めなかったですよ。 もう一つは、私が現役終わりの年、九電ラグビー部の存続が危うくなった事です。部員の採用が44年から50年まで、ほとんど採用がなかったんです。その間は、一人か二人しか入っていません。この時代が一番厳しかったですね。 その間に、まったくの素人の社員をラグビー部に入れましてね(笑顔)、何とか公式戦の試合を行なってました。しかし、その間に、「八幡」に勝ったんです。その後、51年から選手が入りだし、選手をとってくれるようになって最高にうれしかったです。それから、強くなっていきましたね。 マネージャーの時は、橋本という選手が肝臓がんで亡くなりました。まだ、若かったんですよ!伸び盛りの年齢(選手)で非常に残念でした。プレーも最高で、オール九州のメンバーにも入る勢いだったですけど・・・。
question ―外国人の採用を始めたのは、博希さんでしたよね?
「そうですよ。」オーストラリアまで行って、あてが無いまま会社の紹介をして、商社の方に試合の日程やある程度の情報を頂いて、商社で面接を行なっていました。良い選手は、お金がかかってしまう為、良い選手は取れなかったんですが・・・、その年から外国人の選手を取ってくれるようになったという事は、この事がきっかけになっています。
question ―いろんなエピソードもあったようですね。
珍道中がありましたね。オーストラリアに入国する際、食べ物を持って行くのが駄目だったんです。ところが、お土産を持っていかないといけないものだから、日本の「めざし」とか「ふりかけ」とか「明太子」とか入れていたんです。そこで大神が、入国手続きをどこの番号ですれば通り易いか?お客さんの流れをジーと見てるんですよ。 「ここだったら大丈夫だろう!」というところに行って、すり抜けたことがありますね。 ちなみに・・・オーストラリア、ニュージーランドは4回ほど行きましたね。
question ―本当に熱血漢、今でも後輩の試合を見ると、頭にくる試合もあるんじゃないですか?
「ありますね。」私は37年会社勤務していますけど、転勤の時はラグビーに関わっていないんですが、転勤先の長崎、宮崎、鹿児島でラグビー部を作ってきました。そう考えると、30数年間ずっと、ラグビーに携わってきましたね。 常に熱血漢タイプだったので、選手を殴ったこともありました。
question ―最近のラグビー部は、強化が進んでますが、OBとしてどのように感じられますか?
うれしく思いますね!私の時代もそういう話があったんですが、「【シンボルスポーツ】にしなくてもみんな認めとるだろう」と・・・。やっぱり、正式に認められるのと暗黙のうちに認められるのとは、やっぱり違いますからね、非常にうれしいです。 そのかわり現役選手は、責任が倍増するという事は、言えるかもしれませんね。
question ―今年は、本当にTLへ昇格して欲しいですね。
そうですね。会社はもちろん、OBすべてが念願しているんじゃないですかね。『九電ファン』を含めてですよ。
question ―博希さんは、労務部畑で活躍され、都城営業所長や、人事労務部部長なども務められました。仕事とラグビーの両立、生半可な努力ではなかったでしょうね?
結局、私はそれなりに両立できたと思うんですが、その分、家族を旅行に連れて行くとか、そういう事が欠けていたような気がします。・・・今頃遅いですが、反省しています。
question ―仕事で思い出に残っていることを2〜3話して下さい。
そうですね、組合交渉に勢力を注いだことでしょうか。
question ―ところで博希さんは、森前首相にまで絵を贈呈された腕前を持つ名(迷)画伯。絵はいつから描き始められたのですか?
小学校の頃から書いていました。母親は、働いていましたし、家に帰っても誰もいなかったんです。学校に絵の先生がいらっしゃったんで、よく学校の廊下で書いてましたね。 その当時は、スケッチ大会が結構多かったんです。物がない時代ですから、賞品全部が物なんです。帳面や、クレヨン、鉛筆等が賞品として出ていたんです。だから、小学校の頃は、学用品を全然買ったことがないんです。全てスケッチ大会でもらっていました。 正直、高校から大学に行く時にラグビーを選ぶか?それとも絵を選ぶか?で迷いました。ラグビーの合宿所から、美術大学まで見に行ったこともありました。 ところが美術大学は、入学金の他に寄付金がいるんですよ!そんなお金はありませんから、ラグビーの方に行きましたけど・・・・。
question ―エネルギー館での作品展に森前首相が来られたことは、私たちも驚きました。本当にラグビーの繋がりと言うのはありがたいですね。
びっくりしましたね。東京支社にいる時に森さんの秘書の方に、「あなたの後輩でこういう人がおります」興味ありますか?と秘書にしたらしいんですが、個展を開くので本人が絵を贈呈してもいいと、特に事前の打合せはなかったですよ。 当時の副支社長(徳臣氏)の独断で、まさか来るとは思わなかったです。まぁ、一番困ったのは、会社の上層部の方々じゃないですか。 ちなみに、森さんも早稲田でラグビーをしていましたからね。
question ―長年ラグビーに携わられて得た人間関係。ノーサイドの精神。これがラグビーという競技から離れられない理由でしょうか?
それが、ラグビーの一番良いところですから、だからだと思います・・・人との付き合いを大事にするというのは。
【ノーサイドの精神】→試合が終われば敵も味方もないという考え。
question ―最後に仕事とラグビーを両立して、トップリーグ昇格を目指す後輩達に、熱い博希節を聞かせて下さい。

我々の念願だから、厳しい面もあると思いますが、一人一人が今の立場を理解して、会社の支援や九州のファンを大事にして、「今しかない」「今がんばらなければ、いつがんばるか」と私は思います。 当然、監督以下、スタッフ皆が思っているんだろうけど、それ以上に我々(OB)の方が、トップリーグに上がってファンを喜ばせてくれ!!とある意味思いは「強い」と私は思います。だから、当然選手は一人一人立場を十分理解して必ずや実現してくれると思っています。今年の秋からの応援が楽しみです。

一つ神田監督に、トップリーグに上がったら絵を寄贈すると、そういう約束をしています。どういうユニフォームがいいか?と私が聞いたら、神田監督は、やっぱり前の「白とエンジ」のがいいと・・・。あれが九電ラグビー部の原点だと・・・。 私は、トップリーグのユニフォームで書こうと思っていたんですが、「白とエンジ」のユニフォームで書くことを約束しました。だからとは言いませんが、是非頑張って欲しい!!ファンも楽しみにしていると思います。


吉田 博希(63歳)
■九州ラグビーフットボール協会評議委員 九州電気保安協会常務理事
■筑紫ヶ丘高 → 早稲田大 → 九州電力株式会社
■現役時代は大型WTBとして活躍 九州代表
■引退後部長を除く全ての役職を歴任した唯一のOB

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